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「なぜ何かが存在するのであって、何も無いのではないのか。」

長~いので、もし真剣に読んで下さる方がおりましたら時間のあるとき読んで、いっぱい考えていただければ幸いですw

「哲学」というカテゴリを作ったにもかかわらずこれまで一度も記事を投稿しておりませんでした。
そもそも「哲学」カテゴリを作ったのは、自身が論理的な哲学を好んでいるからには相違ないのですが、「果たして自分の行っている『哲学』は学問的に哲学に分類されるようなものなのか」など、ブログに掲載することに関して様々な不安材料があったためにこれまで躊躇しておりました。が、こうした「哲学的探究行為」はしばらくやらないと著しくその思索能力が減退してしまいそうで重い腰を持ち上げた次第です…


以下の文章は私が高校一年生の時、コンクールに応募するため記述したものです。
結果的には賞を頂きましたが、今あらためて見てみると表現は稚拙だし、内容の論理にも不備は散見されるし、知識量も明確に少ない、という感じがいたします。ただ、意見の大筋は現在もあまり変わらず(進展が無いというのが正しいかもしれませんが・・・)、ときどき自身でこの文章に立ちかえることすらあります。

ですが、3年前に書いたものなので、自身の公式見解ではありません。
論理的欠陥の指摘など、コメントはどんどんお寄せ下さい。こうした思索行為は記述対話によってどんどん深みを増します。

※ここで記す「真理」とは「自然科学的な事実」を指し、「普遍的倫理観」などは含まれません。

次の命題について、あなたの考え方を論理的に展開するエッセイを記述しなさい。
命題: Why is there something, rather than nothing?  (Leibnitz)  
    なぜ何かが存在するのであって、何も無いのではないのか。(ライプニッツ)

私は哲学という学問に興味を持って以来、これまで本を読むなどの様々な形で哲学観を深めてきたつもりだが、その上で一つ思ったことがある。全ての哲学の極論は「何とでも言える」という表現に尽きるのではないかということである。これは決して投げ遣りな姿勢から生まれた「思想」なのではなく、浅くも私の十六年の人生の中で真剣に構築された「哲学」である。ライプニッツの投げ掛けた「なぜ何かが存在するのであって、何も無いのではないのか。」という疑問に対しても、この「何とでも言える」という表現が解答として最も相応しいのではないのかと私は思う。
 まず着目して欲しいのは、このライプニッツの問いかけが言語で形成されていることである。当たり前のことだと思うかもしれないが、私はこの「言語による論理形成」を大変重視している。何故なら言語は論理性に欠如した表現媒体であり、決して「完璧」ではないからである。
 例えば、ある人が目の前にAという物体を確認し、「私の目の前にはAがある。」と発言したとしよう。ここでこの人は、それまでただ漠然と視覚、聴覚、嗅覚等でAを「感じていた」状態から、発話したことによってAの存在を断定したことになる。しかしどうであろう、本当にAはそこに存在しているのだろうか 。視神経や脳が麻痺している可能性や睡郷の内である可能性が完全にないと言い切れるだろうか。当然ながら論理的にはその可能性を捨象することはできない。つまり、この人は発話という言語への体系化によって、視覚等の情報に固執した先入観を生じてしまったのである。この「論理のずれ」はほんの一例に過ぎない。我々が生命を営み何かを体感している全事象に当てはまりうることなのである。そこに見えていたとしても、それが存在しているとは限らない。手で触れて形が確認できたとしても、臭いがあっても、音がしていてもその物体は実存していないかもしれないのである。 そう、つまり我々自身が実存しない可能性もあるのである。次いで、ライプニッツは何かが存在していることを疑問の前提にしているが、今、この状態が「何もない」状態の上に成り立っている可能性すらあるのである。私がこの考えに辿り着いたのは中学二年生の時だが、その時の驚嘆はたいへん大きなものであった。だが一見すると可笑しな話である。我々が個体として実存せず今見えているのがバーチャルの内の世界だとしても、我々の思考存在は実存している。第一、何もない状態であれば思考を行うエネルギーも無い。だが、そう言って片付けられるのは現代物理学の中の狭い見識の内であり、それは本質的な「物理」とは異なる。言ってみればそのような論理こそ一部の情報の固執したコテコテの先入観なのである。再度繰り返して言うが、目の前に見えていたとしてもそれがそこに存在している確率は百パーセントではない。現代物理学は飽く迄物質の存在を「仮定」した上に成り立っている。存在性を大前提としているもので、無存在を説明することは事実上不可能ではないだろうか。実に「何も存在しない」状態を想像することは三次元世界に住む我々が四次元、五次元を想像する以上に難しいことである。それも、現代物理学の感覚が一般的に我々の感覚になっているからである。現代物理学は「仮定」の上に「仮定」を繰り返して成り立っている。これは論理的精度の観点から言うのだが、「まず空間、時間の存在を仮定し、次に物質の存在を仮定する。そして原子核というもの、電子というものの存在を仮定して、その原子核というものの周りを電子というものが飛び回っていると仮定し・・・」といった具合に仮定した世界の上で仮定がなされる。さらにそれは宇宙論や量子論まで「仮定」の連鎖は続く。すると、その膨大な系譜を前にした人々はこう思い始めた。「我々の行ってきた『仮定』は正しかったのではないか」と。当然、端から仮定だなどと夢にも思わず「正しい」と信じ込んでいる人も圧倒的に多いだろう。そして現代社会では明らかにこういう人々が「正常」である。そう、実はこれらが「正常」であることが最も危険なのである。「正しい」と思う、つまりこれは事物を断定してしまうことであり、それが正常化されることは論理性の欠如が正当化されるのと同じことなのである。その理由はこれまで記してきた「見えていても存在するかどうかは分からない」というのと同じで、断定行為はあらゆる可能性を捨象し、その断定の論拠にしているものも仮定または断定の上に成り立っており、完全に論理性が崩壊しているからである。つまり断定を行うことは根本的に論理性を欠いているのである。ライプニッツ自身、微積分学を形成した張本人であるが、微分で求められるのは飽く迄極限値で、彼が微分係数そのものに対してどのような認識でいたか大変気になるところである。
 さて、これまで現代人に生じやすい誤解について数多く記したが、実はこれらの原因となっている諸悪の根源がいる。私が様々に悩んだ末にこの存在を発見できたのはつい最近のことである。そう、それが「言語」なのである。言語とはそもそもコミュニケーションの合理化によって生まれた表現媒体であり、細部の描写を捨象し、類似したものの統一表現として形成される「単語」によって組成されて成立する。そしてこの「細密描写の捨象」が最大の奇問なのである。よく考えて欲しい、私はこれまでさんざん断定することを否定してきた。断定行為が論理性を欠いているとまで言った。しかしどうだろう、そう言っていながら私の書いている一文一文の末尾は「~である」と完全に断定している。そう、私もこうやって「合理化」を選んで論理性を欠いているのである。もし厳密に書くなら「『論理性を欠いているのである』という表現が言語上では適当であろう。」となるのだろうか。私はどうしても末尾がウ段音で終わっていると断定的要素が含まれているような気がしてならないのだが、この「う」は文法上、推量の助動詞なので国語学的にはこれで断定ではなくなったはずである。さて、こんなことをいちいち書いていたらどれほど読みにくい文章になるか容易に想像がつく。これは「言語」が合理性を求めてどれだけ論理性を欠いているかよく表している。ちなみに、この「言語」の断定性質は日本語に限ったことではない。英語や中国語は動詞に含まれる断定性が強いため、日本語よりも事態は深刻である。恐らくは、どのような言語であっても、この断定性質からは抜け出せないであろう。そしてその主因が「細部描写の捨象」にあるのである。むしろこれを行わない言語は、コミュニケーションの手段として全く機能しない。つまり我々は、合理性のために形成されたものをむりやり「論理」という別のことに使おうとしたために、必然的に無理が生じているのである。そして論理における「言語」の汚点をさらにえぐり出すとするならば、言語が「表現媒体」であることが挙げられるだろう。「表現」である以上「実物」でない。つまり完全な「表現」など無いのである。表現媒体である以上、何かしら捨象されそれ故に「実物」と一致した状態を再現できず、やむをえず仮定を行って適切な論理は永遠に行えないのである。念のために釘を刺しておくが、ここで言う「実物」は「現前しているもの」を指すのではなく、我々が感受している「状態」を指している。
 さて、今、ここで展開されている論理は調度、膨張を続けた末期の恒星に例えられるかもしれない。だとしたら、私はこの恒星を超新星爆発させる起爆剤を持っている。ただ、これは最初から提起可能なものであったが、私はあえて後に回した。言語がいかに弱小で、我々がそれに振り回されているのか予め「体感」して欲しかったのである。この起爆剤はその「言語」にとどめを刺すものである。
 それは「存在」や「論理」そのものが言語上の概念でしかないということである。そしてありとあらゆる我々の認知の対象がそうである。少なくとも、ここに記すことのできる対象、発話によって表現できる対象は全て言語上の概念であり、そうでないのは、我々の思考の内、言語を介さないで行える論理のみである。これを説明するのは非常に難しい。何故なら、それらが言語上の概念でしかないのなら言語上の概念を用いずに行えないからである。ただ、よく考えて欲しい。何度も言うが、言語は合理性の追求によって生まれた「表現」であり「実物」ではない。つまり、「存在」という名詞の意味も我々が言語上、「存在」と表現している「感受している事象」であり存在そのものではない。「存在という概念」は「感受している事象」の言語への体系化によってはじめて成立するのである。そして「感受している事象」は「我々が言語上『存在』と表現している『もの』」とは本質的に異なる。それも前に記した体系化による「論理のずれ」によるものである。これが、我々の発している言葉や言語の思考体系の中のものが、言語上の概念にすぎない理由である。
 あいにく私の中で、この超新星爆発は中性子星をつくらず長い間ブラックホールとなっていすわり続けた。いくら考えようとも我々の思考体系は「言語」の内であり、そうである以上、何をどう足掻こうと「どうしようもない」のである。言ってみれば、これは我々人類が今まで構築してきた全ての理論を土壌から根こそぎ薙ぎ倒す様なものである。当然、私がここまで展開してきたものもである。しかし、これは「超新星爆発」の結果としての「特別なブラックホール」であったとしても、「ビッグバン」の結果としての「宇宙」とはなり得ない。言語というもの自体、「宇宙」の中の端くれの「概念」という小さな「恒星」にすぎないのである。さて、私は冒頭で「全ての哲学の極論は『何とでも言える』という表現につきる」と記した。そう、種を明かせば、これは何も哲学に限ったはなしではなく、言語で構築される全ての論理に当てはまるのである。そして哲学においても、その疑問が言語で構築されている以上「何とでも言える」という表現が解答として最も適切である。ただ、これは「我々の言語による思考体系の中のものは言語上の概念にすぎない」ということを抜きにしたとしても、「見えていても存在するかどうか分からない」ということで説明した「断定することの論理性の欠如」の観点からも言えることである。そう、本当に、哲学の極論は「何とでも言える」という表現が相応しく、ライプニッツの疑問においても同じことが言える、これが私の堂々たる見解である。
さて、「哲学は実社会で役に立たない」ということをよく耳にするが果たしてどうだろうか。少なくとも私はそうは思わない。哲学以上に身近で実践的な学問を私は知らない。そのことに気付けたのは、私の引きずりこまれた「ブラックホール」に「ホワイトホール」が存在していたからである。その「ホワイトホール」とは、自称「多進法的思考」を見出せたことである。例えば、ある物体を指差し「これはAではない」と言われたときに「Bだ」と思ってしまうのが「二進法的思考」、「BまたはCだ」と思うのが「三進法的思考」と言うことができる。つまり、これらの「少進法的思考」はその物体がDやEである可能性を捨象してしまっている。そう、これは前述した「見えていても存在するかどうかはわからない」というのと同じである。「多進法的思考」であれば様々な可能性を留意して迂闊に物体が何であるか決定しない。この「多進法的思考」とは、言語の内で極力断定を回避し、論理的精度向上させる思考法である。私はこのお陰で、何度も「ブラックホール」に入ることができるようになった。そして、現代社会で生きるうえでの「言語内思考」においても、大いに実践的に的確な論理性を持たせることが可能となった。哲学は、哲学を知らない人であっても知らず知らずに「哲学している」場合が多い。私そのうちの一人である。そしてそれは、ありとあらゆる学問の「入り口」で行われる。これは他の学問の基盤となっていると言っても大げさではないだろう。哲学の領域がどれほど広いか、それは「広さ」という言葉でははかりしれないほどのものである。私はこの「哲学の宇宙」で遊泳し続けていきたい

このブログの名前「Philosence」の由来について以前触れましたが、「物理学は真理の追究からかけ離れている」という衝撃ゆえの、私のささやかな野望(?)も込めたものでもあります。「真理を求めるサイエンスの実践」というのは広義の「科学哲学」とは異なる、それゆえの「Philosence」だとも言えるかもしれません…。

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事理の究極を徹底探究

「全知」となることは、知覚・認識可能な対象においてすら、思索の媒体である「言語」自身が不完全であることから完遂しえないと言えるだろう。
学問で漸近を目指すべき「真理」は、まず、言語自身で構築される知識構造そのものが不完全であることに自覚的、反省的である必要があるのかもしれない。
どのような事象に対しても童心のように懐疑を抱き、理解はしても結論は決定づけない。そんな、窮理学をやってみたい。
もっと俯瞰的な学問形態を目指して、さあ、Philosence。


開設:2011年2月
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Rintaro Matsunobu 
りんたろう
Yokohama   Japan23歳
物理学専攻の大学出身
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